128 台所の守り神
新しい水着に着替えれば良いタイムがでる、そんなよこしまな考えではないが、このほど厨房(キッチン)を新しくした。心機一転、真新しい気持ちで料理にとり組める感じがして気分が良い。


これでまた思いっきり飛び込める。
西洋料理店ゲデレーへの応援メッセージは
924-0832 石川県白山市藤木町257-14 「西洋料理店ゲデレー がんばれ!係」まで。

新しい水着に着替えれば良いタイムがでる、そんなよこしまな考えではないが、このほど厨房(キッチン)を新しくした。心機一転、真新しい気持ちで料理にとり組める感じがして気分が良い。


西洋料理店ゲデレーへの応援メッセージは
924-0832 石川県白山市藤木町257-14 「西洋料理店ゲデレー がんばれ!係」まで。
4月といえば桜の季節。枕草子にも「絵にかくと、かえって見劣りのするもの なでしこ。菖蒲。桜・・・。」とある。日本人なら、この時期は桜を見に出かけましょう!愛でましょう!というわけで、しばらく休んでいたコラム再開は桜の話題から。
お花見というと、宴会やバカ騒ぎなどと下品なイメージがつきまとうものだが、かつての雅な平安時代や、武者荒れ狂う戦乱の春も変わらずそこに花を咲かせていたことを考えてみよう。代々の天皇が、清少納言が、尊氏が、秀吉が、龍馬が愛でた桜に歴史を感じながらすこしセンチになるのもまた良し・・・と想い、京都へと出かけた。



1000年変わらずたたずむ古寺、刹那的に咲いては散る桜に自分を重ね、またいろいろ考えさせられた御室滞在であった。
家族で水中トンネルをくぐってきた。そこは頭の上を流れる水が空を映しだす、とても神秘的な空間である。澄んだ水は太陽の気分次第で濃くもなり薄くもなる。また光の屈折や反射によっては、赤や黄色も見え隠れする。水ってこんなに違った表情があったんだ、と意外なところで思わぬ感動をした。水は「みずいろ」のクレヨンで描くものだと思い込んでいた幼い頃の自分、そんな観念が頭に浮かび、なんだか急に切なくもどかしくなった。そしてしばらくキラキラ輝くたくさんの水色を眺めながら、凝り固まった長年の観念を溶かすのだった。1歳の我が子にはこの水色はどのように映ったのだろう・・・?

追伸 このコラムは、店主の私が休憩時間などに書き連ねたものを掲載しております。内容は料理や食材、ワインのことだけに限ってはおらず、今回のように個人的な思いや考えなども「休日の1枚」や「その他」のカテゴリー枠をとり、書くことがあります。料理店のコラムではございますが、どうぞ観念やわらかくご覧くださいませ。
散歩の途中、百舌(モズ)のはやにえを見つけた。モズは捕らえた蛙や虫をこのように木の枝に突き刺しておくおもしろい習性がある。後で干物仕立てのご馳走を楽しみにしているのだろうが、ほとんど他の鳥に食べられてしまうそうだ。一説には秋に捕れた初物を神様にささげるお供え物なのだとか・・・。「垣根には 百舌のはやにえ 立ててけり」 散木奇歌集より。

追伸 百舌(モズ)にちなんだ俳句を大募集しています。ご来店時にお聞かせください。
なぜイカロスはそんなに高く飛んでしまったのか。若さゆえ、もっと大きく高く羽ばたきたいという衝動を抑えることができず自分を見失ってしまったのか。「低く飛べば波しぶきで翼が重くなり、高く飛べば太陽の熱でロウが溶けてしまう。空の中ほどを飛びなさい。」と、幽閉されていた塔から飛び立つ時に父に言われていた。ふたりで作ったその翼は、鳥の羽を1枚1枚ロウで固めたものだ。忠告を無視したイカロスは海に落ちて死んでしまう。失敗してやり直せるなら良いが、若者たちは可能性や過信の裏側に恐い一面も持ち合わせている。ギリシャ神話「イカロスの翼」からの教訓。


長野に住む岡宮くんは、ヴェレゾンの本田さんとの共通の友人で、ワインのスペシャリストである。ワイン好きが高じ、自分でぶどうを植え、そしてゆくゆくはワインを造ってしまおうというのだから恐れ入る。小高い山の上、あらかじめ石灰を撒いて土壌改良をした畑に、赤ぶどうピノ・ノワール種と白ぶどうシャルドネ種の苗木が計100本ほど用意してあった。ブルゴーニュ好きの彼らしい選択である。この両品種は寒さに強く丈夫で順応性があるので、長野でも生育に問題ないようである。もちろんすべて害虫フィロキセラ対策がされた接木苗で、伝手を頼ってさがしてもらったそうだ。




願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ
漂泊の詩人西行が、最期は満月に桜を眺めながら・・と詠んだ歌である。「桜の名所」といえば何処だろうか。奈良は吉野の一目千本、京都は醍醐や仁和の御室桜、西行桜で有名な勝持寺も良い。このところうららかな陽気が続き、金沢の兼六園も賑わっている様子である。花見支度にそわそわしている人も多いのではないだろうか。
我々家族も先日、近くの保育園まで花見の散歩に出かけた。かつてはよく京都や奈良まで車を飛ばして出かけたものだが、今は子供が小さいので行動範囲はかなりせまい。無邪気に遊ぶ園児たちと一緒にほのぼのとした花見であった。



