054 おもしろきこともなき世をおもしろく
幕末、黒船に乗り込み密航しようとまでした吉田松陰、その時あまりにも世界に遅れをとっていた日本の行く先を案じ、また過去の威光にばかりしがみ付いて、前を向かない徳川幕府に嫌気がさしていたのであろう。その松蔭がひらいた松下村塾の門弟、高杉晋作もまたその短い人生を日本国に捧げたひとりである。彼はアヘン戦争後の上海派遣で目にした西洋先進国の脅威から、日本に足りない軍艦や最新銃の必要性を痛感する。そして自らも上海でピストルを購入している。(もはや刀で斬りあう時代は終わりと判断したのだろう、実際に伏見寺田屋には当時のピストルの痕が残っている。)また、歴史書などで現在残っている晋作の写真を見ると、髷(まげ)を切り、我々現代人となんら変わらない髪型で写っている。「ヨーロッパへ行ってみたい」とよく言っていたというから、西洋の文化をもっと吸収したいという意思の表れだったに違いない。チョンマゲ時代に彼だけザンギリ頭にピストル、皆にはたいそう変な男に映ったろうと思う。それにしても不自然な髪型だと気づいていても、武士の誇りでもあろう髷を簡単に切ってしまうとは・・・さすがに何を仕出かす分からない革命児である。
彼の恩師、吉田松陰はすこし時代を先取りしすぎたのかもしれないが、最期に大和魂を忘れるなと説いた。革命的な倒幕論を論じ、三味線やピストル片手に幕末を暴れまわった高杉晋作も、死ぬまで愛用の長刀を離さなかったというから、形は違えど武士(もののふ)らしい大和魂を持ち続けていたに違いない。
当ゲデレーのカウンターにピストルを使ったおもしろい電気スタンドがある。店内インテリアの中でもお気に入りのひとつで、店に入り最初にこのスタンドをつけるのが私の日課である。今日そのスタンドを眺めながら高杉晋作のことをふと思ったので少し書いてみたわけで・・・。不景気で世知辛い世の中、このスタンドのようにちょっとした工夫でおもしろく生きていける。






ビンに詰められ、栓をされた時からそのワインの熟成という人生がスタートする。知っての通り、ワインはそのコルクを通し呼吸をしながら熟成し、静かに抜かれる日を待つ。人間で言えば肺の役割か。状態が良ければ半世紀以上も熟成し続けるワインもあるのだから、コルク肺の役割はとても重要である。一般的に肺活量は多い方が良いとされ、コルクであればそこそこ長いものがよい。しかし現在は昔に比べコルク材が減り、長くて上質なものがだんだん少なくなってきているのが実情。最大の産出国ポルトガルでは、第1級品たる要素を備えてくるのは、樹齢4、50年からで、品質はコルクの木皮を剥がすたびに良くなっていくと言われている。剥がされながら150年くらいは繁茂するらしいが、それでも需要に追いつかないのは、ワインブームのせいか、異常気象のせいか・・・。
最近は、スクリューキャップや(ホームページなどが書かれた)人工コルクが代用される時代で、ヴィンテージ(収穫年)や造り手の名前、シャトーの絵柄が焼印される風情あるコルクたちは少しずつ消えつつある。また、便利さを追求しペットボトル入りワインも出てきているというから、いささか行き過ぎの感がある。あまり考えたくはないが、ワイングラスの横に、ながい役目を終えたそのコルクを眺め、見事に熟成されたワインを味わう、そんな楽しみが遠いいにしえの事となる日が将来やってくるのかも。
ゲデレーのトリップ料理は牛の第2の胃「ハチノス」をつかっている。ハチノスとは文字通り蜂の巣に似ていることからついた名で、コリコリとした弾力のある食感が特徴である。下処理の段階である程度やわらかく煮込み臭みを消すのだが、厨房がとてつもないニオイに包まれるため、私はあまりやりたくない仕込みの上位にランク付けしている。また、内臓ホルモン焼きのホルモンとは「放るもん(すてるもの)」からきているとの俗説があるが、そのハチノス仕込みの日はその説が正しい!と確信する日でもある。そんなハチノスではあるが、それを野菜やソースと合わせ、ひとつの料理として仕上げるとこれが一転美味!!なんとも不思議な味で、言葉ではうまく伝えることが出来ないが、ぜひ一度味わっていただきたい一品である。
先日、散歩の途中でふきのとうを見つけた。田んぼの横を流れる川の土手に恥ずかしげに顔を出していた。語源辞典によれば、フキの葉に先立って出る若い花軸をさし、「ふきのしゅうとめ」とも言うとある。食べると苦いので、嫁と比べて姑(しゅうとめ)は苦いものという意味でそう呼んだらしい。寒い地方では「麦と姑(しゅうとめ)は踏むがよい」と言われ、土を割る頃に踏みつけるとよいのがでると伝わっているそうだが、意味深である。果たして本当であろうか?
茶はツバキ科の常緑低木で中国南部の霧の多い山岳地方が原産だと言われている。日本にも原生していたとの説もあるが、現在我々が飲んでいる茶は中国からのものと考えてよい。古くは729年、聖武天皇の時代、お寺で行茶をふるまったとの記録がある。最澄や空海も唐から帰朝した際に茶種を持ってきたようである。日本で茶の祖といえば京都建仁寺の栄西禅師を思い浮かべるが、それは栄西が「喫茶養生記」を著して茶の効能を説いたからで、鎌倉時代よりもっと古くから喫茶は行われていたのである。また、宇治茶と盛んに言われはじめたのは、室町に入り足利義政が茶事にふけり、宇治に茶園を設けて「宇治七園」と称した頃からとされる。やがて、武士のたしなみだ、侘びさびだ、などと言われ茶の道がもてはやされた戦国乱世の時代には、狭い茶室での内密話やはかりごと、茶道具は戦利品や褒美として扱われるなど、味わう茶ではなくなっていったように思う。強い武将にひいきにされたい商売上手な堺の商人たちが、茶道の確立に一枚も二枚もかんでいたのは有名な事実である。